[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
そろそろ受験が始まる。
11月中旬、高卒認定試験を受けなければならない
教科はまぁいろいろあって、一教科だけ受ければよいという比較的簡単なものだ。
しかし、その一教科が「日本史B」。歴史、公民、地理だけは人並みに出来ると自負している自分だが、こればっかしは自信を持ちにくい。なにしろ、日本史Bだ。今までやってきた教科とは比較にならないほどの、覚える量。記憶力の問題ではあるものの、やはりプレッシャーはある。
おそらく、受かればいばらの道になるのかもしれない
何故かというと、仮に高卒認定試験に受かり、合格を証明されたとしても高校卒業というわけではない。これはもともと大学を受ける人のためにあるもの。それが改変され、「高校卒業と同等の学力を持つ能力」という資格を得るだけである。
大学は受けない。専門学校に行くつもりなのである。ただ、この選択は本当にいばらの道である。なにしろ社会的に見れば、自分の最終学歴は中卒である。(専門学校の選択や、就職先にもよるが)
これは就職後の給与形態に大きく響くだろう。
でも、自分が目指すものは違う、と思う
自分にできること、自分にしか出来ないことを生かしせるような、そんな天職を求めている。
という都合のよい話なのだが、自分はいたってマジなのだ。本当にこれしかないと思ったら、これしかないと思う。給与なんて別にどうだっていい。ただ、自分のやりたい仕事をして、夢を実現させたいだけ。
そのために学力もいるのだが、学歴で競いたくはない。ようは実力社会を求めているだけだ。
現実そうはいかないと思うが、これはこれからの日本の経済に必要、いや必然的な問題だと思う。学歴による社会的地位の確立、給与の格差、そしてその人の人生。
それらを決めてしまう「学歴」というものが、この社会にとってどう必要とされるのか。
たしかに、学んで得た知識、能力は価値の大きい財産ともいえる。しかし、それをうまく生かしている社会人が果たしてどれくらいいるのだろうか。大卒の人間が、高卒の人間、はてまた中卒の人より社会のなかでうまく貢献できるといえるのだろうか。いくらよい大学を出た人間だとしても、人間関係に欠如があればそれは致命的だろう。現に日本の企業の形態としては、自身の成果により給与や地位が上がるのではなく、年功序列や地位や、学歴により左右されているのがごとんどであろう。それに納得できず裁判を起こしてしまう実力者もいるのだ。こんな企業、社会の形態にを持つ日本に、今後技術進歩に対する意欲を持つ人間や、やる気のある若者が現れるのだろうか。
だがそうやって日本人は日々技術を進歩させてきている。それは日本人特有の意識に関係しているものかもしれないが、それらをなした人々はきっと、ただ一心に夢を現実のものにしたかったに違いない。
自分はそういうチャレンジ精神を捨てず、ただひたすら夢に向かっていきたい。社会の形態に振り回されることなく、ただ自分のやりたいことをなしたいだけである。
実力主義の社会が確立されるかどうかは別として、今の日本の技術の進歩において、こういう問題があると自分は思う。
最終的に自分が持つ大きな夢をあえて言うとすれば、それは「人に夢を持たせること」。
ただ、それだけ。